今回は、短いプロ野球選手生活ながら、野球界に多大な功績を残した不滅の大投手、「沢村栄治」選手について紹介します。実は彼、「沢村賞」・野球殿堂入り・巨人の背番号「14番」永久欠番と記録・記憶にも残る名選手でした。この記事では、そんな沢村選手の野球人生についてわかりやすくお伝えしていきます。記事を読み終えると、思わず周囲の人に話したくなること間違いなしです。
プロフィール
生年月日 | 1917年(大正6年)2月1日 |
出身地 | 三重県出身伊勢市(旧:宇治山田市) |
身長 / 体重 | 174cm / 71kg |
野球歴 | 京都商業(中退) 大日本東京野球倶楽部(現:読売ジャイアンツ) |
ポジション | 投手 |
投球 / 打席 | 右投げ / 左打ち |
キャリアの始まり
沢村選手は、青果商「小田屋」を営む夫婦の長男として誕生。小学校に入ると野球に夢中になり、小学校4年生でピッチャーを始めました。5年生ではチームのエースとして全国大会に出場し、大注目を浴びました。
高校は京都商業高校に進学し、一人で投げ抜き、1934年には春・夏の甲子園に連続出場!優勝候補にも挙げられたものの、最高成績は2回戦敗退。それでも、京都予選準々決勝では27アウト中23三振を記録し、話題に。
そして、慶応義塾体育会野球部監督に誘われたものの、読売新聞社の正力松太郎に誘われ、「大日本東京野球倶楽部」(現:読売ジャイアンツ)に入団を決めました!
プロ入り後のキャリアについて
1936年の夏季リーグから巨人が職業野球に参加し、沢村選手も登板。結果は1勝1敗と振るわず。しかしこのシーズン後、練習に打ち込んだ沢村選手は秋季リーグでは、プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成!シーズンでは13勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得。優勝決定戦では3連投し、巨人初優勝の立役者となりました。
1937年の春季リーグでは2度目のノーヒットノーランを達成!このシーズンでは、最多勝利と最優秀防御率のタイトルを獲得し、完封数・勝率・奪三振数でもシーズン1位の成績を残し、プロ野球史上初の投手五冠を達成。最高殊勲選手にも選ばれ、優勝にも貢献しました。
公私ともに順風満帆な生活を送っていた沢村選手でしたが、徴兵を受け現役兵として戦線に加わることに。その中で、手榴弾を投げすぎて投手の心臓である右肩を負傷してしまいました。
戦地から帰還後、肩のコンディション調整を行い、1939年夏季リーグにて3度目のノーヒットノーランを達成!兵役で右肩を負傷したため、速球主体の直球スタイルから新球種のシュートを駆使し、技巧派に転向しました。
再度、徴兵を受け戦地から帰還。しかし、肩の故障で成績が振るわず、1944年に現役引退を決めました。引退後、1944年12月2日に3度目の兵役にて戦死しました。
プレイスタイルと特徴
沢村選手の最大の武器はホップする速球!小中高とバッテリーを組んだ山口千万石によれば、「打者の膝元でホップするからバットに当たらない」とのこと。さらにドロップと直球(後にシュートも習得)で打者を圧倒していました。
そして前足を豪快に上げる投球フォームも特徴的。合理的な投球方法で、現役の山本由伸選手(米ドジャース)も参考にしているほどです!
人物像
沢村が、生前に遺した言葉がいくつかご紹介します。野球にどれだけ夢中であったかが伝わる言葉の数々です。
・口癖は、「わしは、まっすぐが好きや。」
この発言から全盛期は、自分の直球に圧倒的な自信を持っていたと読み取れます。
・「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」
沢村は、手紙で弟にこのような言葉を残しました。責任感が強く家族思いだった人間だという意味だとも
感じ取れますね。
・「芝生の上に立って白いボールを握ったときのうれしさは、死線を乗り越えてきたものだけにしか味わえない」
戦地へと何度も向かった沢村が遺した言葉。今、野球が出来ることが当たり前ではないことをこの言葉が体現してくれています。この言葉から、野球に対してどれだけ真剣にそして、好きだったのかが読み取れる言葉ですね。
・「どんな球でも一投、これすべて創造だと思います。 この球は自分にとってはじめて投げる球だと思うと、何ともいえぬ感動が胸にこみ上げ投球に熱が入りました。」
この言葉も、彼がどれだけ投手という仕事にプライドを持っていたかが伝わってきます。このような気持ちで投げていたのですから、圧倒的なパフォーマンスにつながったのでしょう。
数字で見る選手の実績
実働(1936年夏~1943年 5年間)
通算成績:65勝20敗
通算防御率:1.74
獲得タイトル
最多勝利2回(1936年秋、1937年春)
最優秀防御率1回(1937年春)
最高勝率(1937年春)
最多奪三振(1937年春、1937年秋)
表彰
最高殊勲賞(MVP)1回(1937年春)
野球殿堂特別表彰(1959年)
記録
ノーヒットノーラン3回(NPBタイ記録)
年間最多奪三振325個(1937年)
1試合最多奪三振15個
背番号
14番(1947年に永久欠番)
・実働5年間という短いプロ野球生活だったが、65勝も挙げるなど圧倒的な成績を残していることが分かります。また、通算防御率が1.74と、彼が登板すると点を取ることが絶望的だったことが、この記録から読み取れます。まさに、記録・記憶にも残る選手だということが一目瞭然です。
まとめ
当記事では、リーグで日本プロ野球で最も活躍した完投型先発投手に与えられる「沢村賞」の由来となった、沢村栄治選手を紹介させていただきました。現代のプロ野球では、完投型の先発投手が少なくなってきましたが、今後もこのような偉大な選手が現れてほしいと思います。主も、学生時代投手をしておりましたが、沢村栄治選手の投球スタイルにあこがれて真っすぐしか投げない時期がありました。(笑)
最後まで、ご覧いただきありがとうございました。今後も、往年活躍したプロ野球選手について読みやすく紹介させていただきますので、楽しみにしておいてください。